津城は津市にあった城で、津市の古称は安濃津(あのつ)のため「安濃津城」と呼ばれ、かつては伊勢国の中心地として栄えました。
江戸時代の津城は、本丸を中心に東丸と西丸があり、これらを囲む形で二の丸が配置された輪郭式の平城でした。北は安濃川、南は岩田川に挟まれて、これらを天然の外堀として利用していました。江戸時代初期、築城の名手・藤堂高虎によって近代城郭として大改修され、津藩の藩庁となりました。
現在、城跡は「お城公園」と「お城西公園」として整備され、市民の憩いの場となっています。城址には高山神社があり、津市役所、津地方裁判所、津警察署などが建ち並んでいます。
本丸跡の日本庭園が整備され、入口には藩校有造館の正門である入徳門が移築されています。また、観光用の三重櫓の模擬隅櫓が復元されました。平成29年(2017年)4月6日には、続日本100名城(152番)に選定されました。
沿革
津市の古称は安濃津(あのつ)で、平安時代から伊勢国の政治経済の中心地でした。鎌倉時代には、藤原南家の流れを汲む工藤氏を祖とする長野氏が支配していました。
戦国時代
津城の起源は、戦国時代の永禄年間(1558年 - 1569年)に長野氏の一族である細野藤光が、安濃・岩田の両河川の三角州に小規模な安濃津城を築いたことに始まります。
織田信長の時代
永禄11年(1568年)、織田信長の伊勢侵攻により、津城は織田掃部頭(津田一安)が入城し、その翌年には織田信長の弟である織田信包が入城しました。信包は城郭を拡充し、石垣や堀を整備し、本丸・二の丸・三の丸を完成させました。天正5年(1577年)には5重天守と小天守が落成しました。
豊臣家の時代
文禄3年(1594年)、信包は豊臣秀吉の命により丹波国柏原に移され、翌年には豊臣家家臣の富田一白が入城しました。関ヶ原の戦いでは、信高が東軍につき、城は西軍方に攻撃されましたが、奮戦の末に開城しました。
江戸時代
慶長13年(1608年)、信高は伊予宇和島藩に移封され、代わって藤堂高虎が伊勢・伊賀22万石をもって入城しました。高虎は城の大改修を行い、輪郭式の城郭に変え、城下町を整備しました。以後、藤堂氏の居城として明治維新まで続きました。
天守は関ヶ原の戦いで焼失しましたが、寛永年間(1624年 - 1643年)に三重天守と二重小天守が再建されたとされ、その天守は寛文2年(1662年)の火災で焼失しました。再建は幕府への遠慮から行われませんでした。
明治以降
明治4年(1871年)の廃藩置県により廃城となり、建造物は破却されました。その後、本丸跡に日本庭園が整備され、昭和33年(1958年)にはコンクリート製の模擬隅櫓(三重櫓)が復元されました。
無料
津駅から三重会館行バスで10分 → 三重会館下車から徒歩で3分